東京地方裁判所 昭和38年(ワ)3601号 判決 1965年9月25日
原告 一柳良治
被告 三宅電解鍍金工業株式会社 外一名
主文
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告訴訟代理人は「被告らは原告に対し各自金八六九、二九八円およびこれに対する昭和三七年一二月一六日から右支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決および仮執行の宣言を求め、被告ら訴訟代理人は主文同旨の判決を求めた。
原告訴訟代理人は請求の原因を次のとおり述べた。
(一) 原告は、東京都北多摩郡田無町字谷戸三〇二〇番地の一二に家屋番号同町第三〇二〇番の一八、木造瓦葺二階建店舗兼居宅一棟建坪五一坪八合一勺、二階三七坪三合七勺(以下本件建物という)を所有し、昭和三七年九月二八日被告三宅電解鍍金工業株式会社(以下被告会社という)に対し同会社の社員を居住させる目的で右建物の二階三号、五号および六号の六畳三室を賃料一月金一七、〇〇〇円にて賃貸した。
(二) ところで、昭和三七年一二月一六日午後一二時三〇分ごろ本件建物二階三号室から出火し、右建物の二階全部を焼燬し、階下も一部燃焼したり、二階の焼燬物の落下などにより使用不能となり、右建物は昭和三八年三月末日まで使用することができなかつた(以下この火災を本件火災という)。
(三) 被告会社は本件建物の二階三号室に同会社の社員である被告岩淵を居住させていたが、本件火災は、被告岩淵が昭和三七年一二月一六日右三号室で煙草を喫煙しその際火の粉をマツトレスの布カバーに落したが、そのまま外出したためそこから発火し発生したものであるところ、通常人の軽微な注意を用いることによりマツトレスの布カバーの上に煙草の火の粉を放置すれば火災を惹起することが容易に予想できるにもかかわらず、被告岩淵はこれを怠つたものであるから、被告岩淵の右行為は重大な過失にもとづくものである。したがつて、被告岩淵は右不法行為により原告に蒙らしめた損害を賠償する義務がある。
(四) 被告岩淵は被告会社の社員として右三号室に居住していたのであるから、被告会社の本件賃貸借における履行補助者というべきところ、本件火災は、被告岩淵の右過失によつて生じたものであるから、被告会社は、自ら本件賃貸借の保管義務に違反したものである。したがつて、被告会社は右債務不履行によつて生じた本件火災による損害を賠償する義務がある。
(五) 本件火災により原告の蒙つた損害は次の(1) ないし(4) の合計金八六九、二九八円であり、被告らは右損害の発生を予見しえたものである。
(1)原告は本件建物の階下を貸店舗として、二階をアパートとしてそれぞれ別紙目録<省略>記載のとおり賃貸していたが、本件火災により本件建物が燬損されたのでその修理補修工事をせざるを得なくなり、その工事が完成した昭和三八年三月末までの賃料((イ)ないし(ホ)の合計金二五四、〇〇〇円)を得ることができなかつた。
(イ) 二階一、二号室の賃料各金一九、二五〇円(ただし、昭和三七年一二月分のうち後期半月分各金二、七五〇円と昭和三八年一月分より三月分まで各金一六、五〇〇円)
(ロ) 同三、五、六号室の賃料金五一、〇〇〇円(ただし、昭和三八年一月分より三月分まで)
(ハ) 同七号室の賃料金一四、〇〇〇円(ただし、昭和三七年一二月分のうち後期半月分金二、〇〇〇円と昭和三八年一月分より三月分まで金一二、〇〇〇円)
(ニ) 一階貸店舗のうち中村武男、八巻和志および登坂章吾の賃料各金三五、〇〇〇円(ただし、昭和三七年一二月分のうち後期半月分各金五、〇〇〇円と昭和三八年一月分より三月分まで各金三〇、〇〇〇円)
(ホ) 同丸山万二の賃料金四五、五〇〇円(ただし、昭和三七年一二月分のうち後期半月分金六、五〇〇円と昭和三八年一月分より三月分まで金三九、〇〇〇円)
(2) 原告は前記修理補修工事の費用として金四八万円(ただし、修理補修工事費用金三四三万円より昭和三七年一二月二六日東京海上火災保険株式会社から受領した填補金二九五万円を控除した額)を支出した。
(3) 原告は東京ガス株式会社に対し罹災したガス配管撤去料として金一、五〇〇円、新規配管工事費用として金一八、八三八円およびガスメーター四個分代として金一六、九六〇円合計金三五、二九八円を支払つた。
(4) 原告は本件建物より取得する賃料のみによつてその生計を営んできたものであるから本件火災により精神的苦痛を蒙り、その慰謝料としては金一〇万円が相当である。
(六) よつて原告は被告らに対し各自金八六九、二九八円(被告会社に対しては本件建物賃貸借契約の債務不履行による損害賠償として、被告岩淵に対しては不法行為にもとづく損害賠償として)とこれに対する不法行為の日である昭和三七年一二月一六日から右支払ずみに至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
被告ら訴訟代理人は答弁として「請求原因(一)の事実は認める。ただし、本件建物の床面積は知らない。(二)の事実のうち原告主張の日時に本件建物に火災が発生したことは認めるが、二階三号室から出火したことおよび二階全部が焼燬し、階下が使用不能になつたことはいずれも否認する。二階七号室、流し元および便所は焼燬していないし、階下で使用不能になつたのは登坂章吾賃借の店舗だけである。なお、本件火災の出火場所は不明である。(三)の事実のうち被告会社が本件建物の二階三号室に同会社の社員である被告岩淵を居住させていたことおよび被告岩淵が昭和三七年一二月一六日右三号室にて煙草一本を喫煙したことは認めるが、その余は否認する。本件火災の原因は不明である。仮に本件火災の原因が被告岩淵の喫煙中の飛火あるいは落し火にあるとしても、同被告の部屋にはとくに引火しやすいようなものは存在しなかつたから、これをもつて重大な過失にあたるとはいえない。(四)の主張は争う。(五)の前文の事実は否認する、同(1) の事実のうち原告が本件建物の階下を店舗として、二階をアパートとして賃貸していたことは認めるが、その余は知らない、同(2) ないし(4) の事実も知らない。本件火災による本件建物毀損のため原告の蒙つた損害額は(ガス配管の毀損による損害をも含めて)約金一八〇万円であり、原状に復することを超えてなした工事の費用は被告らに賠償の義務がない。なお、被告会社の債務不履行にもとづく損害賠償責任の範囲は借室返還債務の履行不能にもとづく損害、すなわち焼失した賃借部分の焼失時における価格および焼失しなかつたら得たであろう賃料相当額等に限定されるべきであり、賃借していない部分が延焼してもその損害は含まれないものである。また、慰謝料は主として人格的利益の侵害に対する救済として認められるものであり、財産権侵害の場合には、仮に精神的苦痛を伴つたとしても、それは財産的損害の賠償によつて治癒されるべきものである。」と述べ、被告会社の抗弁を次のとおり述べた。
(一) 本件建物の二階三号室に現実に居住していたのは被告岩淵のみであり、被告会社は居住していなかつたのであるから、被告岩淵は賃借人たる被告会社の履行補助者ではなく、いわゆる履行代用者である。そして、このような場合には、賃借人は履行代用者の選任監督につき過失がない以上履行代用者の行為にもとづく責任を負わないものと解すべきところ、被告会社の被告岩淵の選任監督には過失がない。
(二) 仮に右の主張が認められないとしても、被告会社は賃借室を善良な管理者の注意を尽して保管していたものであるから、本件火災は被告会社の責に帰すべき事由によつて生じたものではない。すなわち、被告会社の履行補助者たる被告岩淵は、従来火の始末については十分の注意を払つており、外出の時など使用した灰皿は部屋の外にある流し台に置くことを習慣としていた。そして本件火災発生の日も、被告岩淵は午前九時三〇分ごろ外出するにあたり使用した灰皿を右習慣に従つて処理していたものである。
原告訴訟代理人は答弁として「抗弁(一)(二)の事実をすべて争う。被告岩淵は被告会社の履行補助者であり、本件火災は履行補助者たる被告岩淵が煙草を喫煙中火の粉をマツトレスの布カバーに落しそこから発火しておきたものであるから、被告会社の責に帰すべき事由にもとづくものである。」と述べた。
証拠<省略>
理由
一、原告が本件建物を所有し(ただし、その床面積に争いがある)、昭和三七年九月二八日被告会社に対し同会社の社員を居住させる目的で右建物の二階三号、五号および六号の三室を賃料一月金一七、〇〇〇円にて賃貸したこと、同年一二月一六日午後一二時三〇分ごろ本件建物に火災が発生したことは当事者間に争いがない。
二、本件建物のうち被告会社賃借の二階三号、五号および六号の三室が右火災により焼燬したことは当事者間に争いがないから、その返還義務は履行不能になつたものというべきである。本件建物のうち二階七号室、流し元および便所が焼燬したかどうか、また階下の店舗が原告主張のように使用不能になつたかどうかについては争いがあるが(ただし、登坂章吾賃借の店舗が原告主張のように使用不能になつたことは被告らもこれを認めるところである)、これらの点の判断を暫く留保する。
三、そこで、本件火災の出火場所について考える。
(1) (発見時の状況)
成立に争いがない甲第七号証の七ないし九、証人柴原久良子の証言および原告本人尋問の結果によれば、柴原久良子は本件建物の二階一号室に居住していたものであるが、昭和三七年一二月一六日午後一二時三〇分ごろ右一号室内から室外の廊下へ出たところ被告岩淵の居住していた三号室の入口ドアーの上下左右の隙間から黒煙が室外へ吹き出ているのを発見し、一号室にいた娘の祐子に火事だと知らせ、三号室の南隣りにあたる五号室に在室の堀田勇にも知らせた後、ただちに階段を降りて原告に知らせたこと、その知らせを受けて原告の長男が三号室の合鍵をもつて二階へ行きそのドアーを開けた時にはすでに室内には煙が充満し、南側の押入れの手前の畳の上あたりに焔がみえたので、原告らはドアーのところから室内へ消火器を転倒させたりして消火に努めたが、ますます火勢が強くなつてきたことが認められ、右認定に反する証拠はない。
(2) (消火後の状況)
成立に争いがない甲第一号証の一ないし四、同第二号証の一ないし二〇、同第七号証の五によれば、本件建物で焼燬の程度が一番激しいのは二階の三号室と五号室であること、三号室の北隣りの二号室の焼燬の程度(炭化深度の程度など)は三号室に近いほど激しく、また五号室の南隣りの六号室も五号室に近いほどその焼燬程度が激しいこと、三号室と五号室との境の壁は焼け落ち、押入れの床板は焼け抜けていること、五号室のうち三号室の押入れに接続する東北の部分の床板は焼け落ちているが、畳の焼燬の程度は三号室の方が激しく、また窓敷居の真鍮レールが溶解しているのは三号室のみであること、天井および屋根の部分は三号室も五号室もともに焼け落ちていることが認められ、右認定に反する証拠はない。
(3) 右(1) 、(2) の認定事実によれば、本件火災は本件建物の二階三号室から出火したものと考えられるのが相当である。
四、次に、本件火災の原因について考える。
(1)(イ) (自然現象あるいは外部的原因)
本件火災が落雷その他の自然現象あるいは隣家からの飛火その他の外部的原因にもとづき生じたことを認めるに足りる証拠はない。
(ロ) (放火)
成立に争いがない甲第一号証の一ないし四、同第七号証の六ないし一〇、証人柴原久良子、同中島昭および同岩淵昭治の各証言、原告および被告岩淵各本人尋問の結果によれば、本件建物の東側と北側はいずれも道路に面しており、本件火災の出火場所である三号室は右建物の二階にあること、右建物の階下は東側道路から向つて右より中華そば屋、寿司屋、洋服屋、軽飲食店の各店舗であること、本件建物の三号室には本件火災の起きた日の前夜から被告岩淵のほかに同じ会社の友達である中島昭が宿泊し、中島は本件火災の起きた日の午前九時過ぎごろまで右三号室に在室し、それから暫くして被告岩淵は外出したこと、同人は外出にあたり三号室の東側の雨戸を二、三〇センチ残して閉め、そのガラス戸の窓を締め、さらに入口ドアには鍵をかけたこと、同日午前一一時ごろ被告岩淵の弟の昭治が被告岩淵を訪ねて来た時にもその鍵はかかつていたこと、同日の午前中本件建物の二階一号室には柴原久良子らが在室していたこと、被告岩淵は被告会社の従業員(塗装工)であり、同人には本件建物に放火するような動機が見出せないことが認められ、右認定に反する証拠はない。
右認定の事実によれば、本件火災が被告岩淵ないしその他のものの放火によるものであると考えるのは相当でない。
(ハ) (電気関係)
成立に争いがない甲第七号証の三および五、証人大芝賢三の証言によれば、本件建物は昭和三五年七月ごろその建築が完成したモルタル塗の建物であること、本件建物においては壁体側から炭火されている個所は見当らず、したがつて本件火災が漏電によるものとは認められないこと、三号室内にあつたテレビと電気スタンドはいずれもスウイツチが閉めてあり、電気冷蔵庫は二台ともコードは電源に接続されておらず、焼燬したのは外板のみで内部は殆んど焼燬していないことが認められ、これに反する証拠はない。
また、電線がシヨートすればまず安全器のヒユーズが切れるので、シヨートにより本件火災が生じたものとは考えられない。
(ニ) (ガス関係)
成立に争いがない甲第一号証の一、同第二号証の一二ないし一四、同第七号証の五、証人入部和男の証言によれば、三号室内にはガスストーブ一台とガスコンロがあつたこと、ガスコンロの台とその床板は焼け落ちているが、ガス管は残つておりその元栓は閉止されていたこと、ガスストーブ自体およびその附近は焼燬の程度がそんなに激しくないことが認められ、これに反する証拠はないから、ガス関係の事故から本件火災が生じたものと考えるのは相当でない。
(ホ) (被告岩淵らの行動)
成立に争いがない甲第一号証の一、同第二号証の一五ないし一八、同第七号証の五、六および一〇、証人中島昭の証言および被告岩淵本人尋問の結果を綜合すれば、本件火災の起きた日の前日である昭和三七年一二月一五日被告会社ではボーナスが出たので、被告岩淵、中島昭および小林芳明らはボーナスを貰つてから西小山、新宿、田無と酒やビールをはしご飲みし、午前〇時近く本件建物に帰宅し、三号室にてガスでお湯を沸かしてお茶を飲み、同月一六日午前一時近く小林が六号室に帰つて行つたので、被告岩淵と中島は就寝したこと、同日午前八時半ごろ被告岩淵と中島は起床し、中島の使用した布団を押入れに入れ、被告岩淵の使用した毛布、布団、マツトレスはそのまま二つ折りにして部屋の東北隅においたままにし、ガスでお湯を沸かし、部屋の中央に一尺五寸角の四角のテーブルを出してその北側に中島、西側に被告岩淵が坐り、部屋の東南隅においてあるテレビで「スキーの話題」を見ながらパンを食べたり、コーヒーを飲んだりしたこと、その際被告岩淵と中島はタバコ「いこい」を一本づつ喫煙したこと、その火は被告岩淵においてマツチでつけ、マツチの燃えさしやタバコの吸い残りは中島と被告岩淵の間の畳の上に置いた灰皿に入れて消火したこと、中島は午前九時過ぎごろ、被告岩淵はそれから間もなく三号室から外出したことが認められ、これに反する証拠はない。
(2) 成立に争いがない甲第七号証の一および三によれば、本件火災の起きた日の翌日本件火災の現場を実況見分した武蔵野消防署の消防士長大隅章は、その後同消防署長代理武井勇らの行つた質問に対する被告岩淵、柴原久良子、原告、堀田勇および中島昭の各供述(その各供述を録取したものが甲第七号証の六ないし一〇である)をも資料にして判断した結果、本件火災の原因は「被告岩淵が中島昭とともに午前八時三〇分ごろ起床してから居室でマツトレスに接近して角型食卓を囲み喫煙(いこい)したが、その際誤つて火の粉がマツトレスの布カバーに落ち着火し、燻焼を続け約三時間二〇分を経過後出火したもの」と推定していること、その推定の根拠は本件火災が放火、電気関係およびガス関係にもとづくものとは認められないこと、三号室内でもマツトレスの置いてあつた東北隅の部分は焼燬の程度が著しく、東側窓の真鍮レールも北側壁に近い部分が溶解していること、マツトレスのゴムも焼損が著しく、また本件建物の二階に居住していた柴原久良子と堀田勇は本件火災の起きた日の午前一一時ごろからいずれもゴム臭い臭いをかいでいたことにあるものと認められ、これに反する証拠はない。
そこで、右推定の当否について検討するに、
(イ) 本件火災が落雷などの自然現象、隣家からの飛火などの外部的原因、放火、電気関係の事故およびガス関係の事故にもとづくものと認められないことは前記(1) の(イ)ないし(ニ)において判断したとおりである。
(ロ) 成立に争いがない甲第一号証の一ないし四、同第二号証の一ないし二〇、同第七号証の五によれば、三号室内のうちマツトレスの置いてあつた東北隅の部分の焼燬の程度が著しく、二つに折りまげた上の方のマツトレスのゴムも焼損していることが認められるが、他方南隣りの五号室との境にある押入れの附近も焼燬の程度が著しく、その床板は押入れに接続している五号室の北側の床板やガス台下の床板などとともに焼け落ちていること、二つに折りまげた下の方のマツトレスのゴムやその下の畳は殆んど焼けていないことが認められ、これに反する証拠はない。
(ハ) 成立に争いがない甲第七号証の七(消防士武井勇の柴原久良子に対する質問調書)には「午前中から何か頭の痛くなるような変な臭がしていた」旨の記載があり、また同号証の九(消防士武井勇の堀田勇に対する質問調書)には「午前一一時ごろ買物を終えて帰つて来た。五号室に入つたとたんゴム臭いのでガスが漏れているのではないかと思いガス栓を確かめて異常がないのでご飯を炊き湯豆腐を作り酒にかんをつけ飲んでいるとまたゴム臭いのでもう一度ガス栓を確かめて異常がないので障子を開けて焚火をしているのではないかと思い表を見て臭いをかいだが変つた臭いはなく、また室の中に入り酒を銚子に二本飲んでご飯を食べようとした時でした、一号室の柴原さんの奥さんが『おじさん、岩淵さんの室が火事だよ』と言つたので飛び出した」旨の記載があるから、柴原久良子は何か変つた臭いを、堀田勇はゴム臭い臭いをかいだことはこれを認めることができる。
しかし、一方、証人岩淵昭治および同中島昭の各証言によれば、岩淵昭治は本件火災の起きた日の午前一一時ごろ被告岩淵を訪れて三号室の前まで来たことおよび中島昭は同日午前一一時半ごろ三号室の前を通つて六号室の小林を訪れ、五分位後に二人で三号室の前を通つたことが認められるが、いずれもゴム臭い臭いをかいだことは認められないから、堀田勇がゴム臭い臭いをかいだ時刻が午前一一時ごろからであるというのはすこぶる疑わしいものである。
(ニ) 甲第七号証の三(消防士長大隅章作成の火災原因判定書)には前記推定の根拠として明記されてはいないが、成立に争いがない甲第一号証の一、同第二号証の一九および二〇に証人入部和男の証言を綜合して考えれば、右甲第二号証の一九および二〇(いずれも写真とその説明)に写つている布団はマツトレスに包まれていたもので、その布団の中央附近が円形に焼け抜けていることも前記推定の一つの根拠になつているのではないかと推測されるので、この点について若干検討するに、成立に争いがない甲第七号証の六および被告岩淵本人尋問の結果によれば、右甲第二号証の一九および二〇に写つている布団は中島昭の使用した布団で、本件火災の起きた日の朝被告岩淵がこれをたたんで押入れにしまつたものであることが認められ、これを覆えすに足りる証拠はないから、右布団の中央附近が円形に焼け抜けていることは前記推定の根拠にはならないものといわなければならない。
(ホ) 被告岩淵本人尋問の結果によれば同人は今日に至るまで本件火災に関し何らの刑事責任をも追及されていないことが認められ、これを覆えすに足りる証拠はない。
(ヘ) 右(イ)ないし(ホ)で検討したところをもとにして考えれば、消防士長大隅章の前記推定は、まず本件火災が三号室のうちマツトレスのおいてあつた個所から出火したものとしている点において、さらにその出火が被告岩淵あるいは中島昭の喫煙した煙草から落ちた火の粉にもとづいているものとしている点においていずれも合理性を欠くものといわなければならない(本件火災の原因につき主として理化学的な面の調査をした警視庁技術吏員の入部和男はその証人尋問の際「私としてはその火気源火元ですね、それはそれと認められる位置はおよそ推定はつきましたが、その火気源の位置のいかなるものが火災の誘発を起した原因となつたのか決め手はなかつたわけです」「それは先ほども申し上げましたように、火気源の限定はできますが、マツトレスの附近と認められるけど、その火気源の最初の火気源が何であつたかということは結論的に出ませんでした」と証言している)。
(3) その他本件火災の原因を特定するに足りる証拠はない。
(4) 以上(1) ないし(3) において見てきたように、本件火災は落雷などの自然現象、隣家からの飛火などの外部的原因、放火、電気あるいはガス関係の事故にもとづき生じたものとは認められず、また被告岩淵あるいは中島昭の喫煙した煙草から火の粉がマツトレスの布カバーの上に落ち、そこから出火したものと積極的に認定することもできないものである。
言いかえれば、本件火災はその起きた日の午前九時ごろまでその出火場所である三号室に在室していた被告岩淵あるいは中島昭の何らかの行為に端を発するものと推測することは可能であるが、そのいずれの、またいかなる具体的な行為にもとづくものであるかは結局明らかでないものといわなければならない。
五、したがつて、被告岩淵の重大な過失により本件火災が生じたものとは認められないから、その余の点を判断するまでもなく原告の被告岩淵に対する請求は理由がない。
六、さて、前にも触れたように、被告会社がその社員を居住させる目的で原告から本件建物の二階三号、五号および六号の三室を賃借し、三号室に被告会社の社員である被告岩淵を居住させていたことは当事者間に争いがない。
そして、このように家屋の賃借人が自らその家屋に居住せず、さらにこれを賃貸ないし使用貸により第三者をして、居住させ、しかもそのことにつき賃貸人の承諾を得ている場合に、その賃借物が右第三者(賃借人のいわば履行代用者)の責に帰すべき事由により焼失した場合には、賃借人としては右第三者の選任監督につき過失がある場合にのみ賃貸人に対し右賃借物の焼失による損害賠償の義務を負担するものと解すべきである(右履行代用者に故意あるいは重大な過失がある場合には、賃借人の選任あるいは少くともその監督に過失があるものとされる場合が多いであろう。なお、右賃借人が会社であり、履行代用者がその会社員である場合にも右と異る法理を用いなければならない理由は見当らない)。
そこで、被告岩淵に対する被告会社の選任監督にはたして過失がなかつたかどうかについて検討する。
(1) 成立に争いがない甲第七号証の六、証人小野塚国平の証言および被告岩淵本人尋問の結果によれば、被告岩淵は塗装工としてシンナー等を使用する関係上、日ごろから火気の取扱いには相当の注意を払い、使用した灰皿はただちに水で洗うかそれができないときは流し元に出して水をかけておくとかしていたこと、同人は灰皿を二個所有しており本件火災の起きた日にはそのうち一個を使用し、残りの一個は三号室内の茶ダンスの上に洗つて伏せておいたが、外出にあたり右使用した灰皿を室外の流し元に出して水をかけておいたこと、また同人は右外出にあたりガスの元栓を閉めておいたこと(このことは前記四の(1) の(ニ)において認定したとおりである)を認めることができ、この認定を覆えすに足りる証拠はない。
また、被告岩淵本人尋問の結果によれば、同人は本件火災の起きた日の朝コーヒーを飲むために使用した茶椀を外出にあたり洗つて茶ダンスにしまつておいたことを認めることができ、これを覆えすに足りる証拠はないが、このことは被告岩淵の几帳面な性格を物語るものというべきである。
(2) 証人小野塚国平の証言によれば、被告会社の専務取締役をしている小野塚国平は被告会社の代表取締役の命をも受けて工場長を通じあるいは自ら被告岩淵ら従業員に対し機会ある毎に火気への注意を喚起し、また主として火の始末の監督のために被告岩淵ら不在の時に自ら六、七回ないし一〇回位本件建物を訪問し、原告あるいはその妻から被告岩淵らの部屋の合鍵を借用してそのドアを開け室内の状態を見て廻つたこと(原告が自ら小野塚に対し被告岩淵居住の三号室の合鍵を一、二度貸したことがあることは原告本人が述べるところでもある)を認めることができ、右認定を覆えすに足りる証拠はない。
(3) 右(1) 、(2) で認定した事実により考えれば、被告会社は原告から賃借した本件建物の二階三号室によりその会社員である被告岩淵を居住させていたことにつきその選任監督に社会生活上相当な注意を払つていたものすなわち過失はなかつたものと考えるのが相当である。
七、してみれば、被告会社は本件火災にもとづく本件建物の二階三号、五号および六号の三室の賃貸借契約の債務不履行の責任を負担しないものであるから、その余の点を判断するまでもなく原告の被告会社に対する請求も理由がない。
八、よつて、原告の被告らに対する請求をいずれも失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 西山要 西川豊長 上田豊三)